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1 10月24日に行われましたタイトルマッチと選抜式「詩のボクシング」全国大会 in 岐阜 についての結果は下記Facebookに掲載。 ■
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by poetryboxing
| 2015-10-25 21:30
| 選抜式・全国大会2015
いよいよ一週間後の10月24日にタイトルマッチと選抜式・全国大会 in 岐阜の2大イベントが岐阜県多治見市のハロー文化ホールで行われます。 この後にも先にも一度きりしかない機会を見逃さないでください。時間の都合がつくようでしたら、ぜひとも観戦していただければと思います。 バロー文化ホールがどこにあるのか分からないという人もいるかも知れませんが、名古屋駅から電車で35分ほどで多治見駅に着きます。その駅から歩いて行ける場所にあります、といえばどうでしょうか。名古屋から近いから何んだと言われるとそれまでですが、意外に分かりやす所にあるのです。 タイトルマッチ出場者及び選抜式・全国大会 in 岐阜の出場者のタイトルマッチと全国大会への思いを下記の「詩のボクシング」Facebookに掲載しています。ご覧ください。 「詩のボクシング」Facebook ↓
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by poetryboxing
| 2015-10-16 14:00
| 選抜式・全国大会2015
今や「詩のボクシング」と現代詩は出発点は同じ詩=ポエジーではあるが表現メディアとしてはまったく無縁であるのに、詩という言葉あるがために関係づけて語る人がいます。そこには声の言葉によって新たな詩を発見する場である「詩のボクシング」が積み重ねてきた実験ともいえる歴史を踏まえないで勘違いをしているところがあるようです。 ところで、わたしが現代詩状況に失望し始めたのは、詩が知識によって書かれるようになったことと知識によってのみの詩批評しか成り立たなくなったところに原因があります。その結果として、批評性もなく互いを褒め合うなれ合いが内省もなく行われようになりました。そういったこともありますが、実のところは世間的評価を気にするがゆえに保守的になり過ぎて面白みがなくなったことに失望したといった方がよいかもしれません。それよりも、たとえ孤立無援であったとしても、どのような批判を浴びるとしても詩を外へと連れ出し、新たな世界を発見する実験をメディア(詩は文字として紙に留まっているものでは決してありません。その大本は声としてあったのですですから)を変えてでも継続的に行わなくてはならないとわたしは考えています。 好みによるといわれればそれまでかもしれませんが、わたしは詩が言葉の先端を行くとすれば、それは尖っていなくてはならないと思います。その尖ったするどい言葉が、自分の心が得体の知れないものに包み込まれ、それがやがて圧力を増して息苦しさを感じさせるようになる、その得体の知れない息苦しさを突き破り、至福をもたらしてくれるもの、そういった力を持ったものが詩ではないかと思っているからです。 吉本隆明さんが、「悪人正機」(話し手:吉本隆明、聞き手:糸井重里)の中で言っていることに同意できることが多々あります。 「僕があんまり詩を書かなくなっちゃったことを正当化する理由があってね。詩の世界って、たくさん賞があるんです。もういろいろあってさ。で、他のジャンルではそんなことはなにんだろうけど、選者が自分たちでもらっちゃうんだよ。かわりばんこみたいにして。賞をあげたら、この人には励みになるっていう人にはやらねえで、てめえたちが勝手にもらっちゃう。そんな貧しさが、イヤになった理由のひとつなんです」 この指摘にも現代詩の身内主義的な閉塞感が表れています。 続けて吉本さんは、 「あと、やっぱり、銭をとれないってことが悪い意味で作用していますね。たとえ銭を取れなくてもいいものを書くっていうならいいけどさ。それがいい加減なものを書くことにつながっちゃうのが、もうひとつの理由ですね」 と言っています。この「いい加減なものを書くことにつながっちゃう」ことにも現代詩の閉塞感を生み出している大きな原因があると思います。 実は、吉本さんが言っていることと同じようなことを拙著「詩のボクシング 声の力」(1999年刊)に書いています。 ちなみに、「詩のボクシング」の出発点では、身内主義的な閉塞感を打破するためにいろいろな人が参加できる風通しのよい場を作ることに主眼を置きました。つまり、同じ人が集まるだけの場にしたくはないということです。 ですから、「詩のボクシング」の地方大会での募集で同じ人しか応募参加しなくなった時、それは仲間だけで楽しむカラオケ状態になってしまいかねないことでもあるので、「そうなれば『詩のボクシング』を止める」と公言もしています。(ちなみに2015年9月12日にバロー文化ホールで行われた岐阜大会では3分の2以上が初めての応募者でした。今のところまだ大丈夫です。) 吉本さんも、「同質の者が集まって作る世界は傷つくこともなく快適ですが、先が閉じています。発展して行く余地がないのです。いくら立派な理由があって作った集団でも、始末におえないものになってしまう恐れがあります」と言っていますが、わたしもその通りだと思います。 ■
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by poetryboxing
| 2015-10-12 09:00
| 「詩のボクシング」関係
丸口咲 私が通う呉三津田高校では、一二年前から「詩のボクシング」大会を学校行事の一環として行っています。呉三津田の「詩のボクシング」は、各クラスの中から優れた詩を選び、朗読者がリング上で朗読する、という形式で行っています。 一回戦の前にはクラスで朗読者を応援するクラス応援があり、クラスの個性が光る、またクラス全員で参加しているという一体感と団結力が感じられる場です。私は二年生の時から朗読者として出場していました。放送部に所属していたために、人前で朗読することに抵抗はなく、寧ろ楽しいくらいでした。それが功を奏したのか、またクラスの詩が優れていたこともあってか、二年連続で優勝することができました。岐阜大会には「呉三津田の『詩のボクシング』を校内だけに留めず、外の世界に発信し、そして挑戦する」という目的で参加させて頂きました。優勝できると思っていなかったので、本当に驚きました。 先にも述べたように、私は放送部に所属していました。私が常に心掛けていたのは「伝える、届ける」ことです。ただ内容を伝えるのでなく、書き手もしくは読み手の想いが分かってもらえるような朗読をする。放送部だけでなく、「詩のボクシング」でもこのことは常に心掛けていました。そしてもう一つ。「楽しむ」です。勝ち負けに拘らず、全力で楽しむ。呉三津田でも岐阜大会でも、この心意気で試合に挑んでいました。全力で楽しんで、その結果勝っても、負けても、そこから得られるものも学ぶこともたくさんあります。楽しめた上に自分の経験に、そして糧になるのなら、とてもお得だと思うのです。 全国大会には強者ばかりが揃っていると思いますが、呉三津田で、また岐阜大会で得たもの、学んだものをぶつけられるよう、また楽しめるように頑張ります。 海堀賢太郎 詩の世界は果てしない。 言葉の連続の中で想像力の旅に出る。 いろんな人の声や言葉を全身に浴びていろんな世界に旅立てたらきっと最高なんだろな。溢れるたくさんの世界を聞き、空間を体感できるのが心から楽しみです。 自分もそのリングに立つと考えたらああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああものすご緊張します。 土屋智行 リングから離れていたあいだに、 社会も、私自身も大きく変わりました。 この大きな変化を伝えるために、 私は何をすべきなのだろうかと、いま考えています。 私にも政治的な信条や、信仰や、 気づいたことなどはたくさんありますが、 そのようなものよりも、もっと伝えるべきことが あるような気がするのです。 今の私にとって朗読は、この伝えるべき何かを探る 営みのひとつなのではないかと思います。 今まで、私が朗読作品を作るときに心がけていたのは、 自分が作った作品が「自分が一番朗読したいもの」であるだけでなく、 同時に「自分が一番聞きたいもの」であることでした。 今回は、もう一歩踏み込んでみたいと思います。 これまでの作品も、新しい作品もたずさえてまいります。 よろしくお願いします。 川原真弓 まあまあしあわせな生活を送っていても、 ちょっとした悲しみや後悔や満たされない気持ちは定期的に、 私の心を包もうとして、 それを静めてくれるのが歌、だったりダンス、だったり絵、だったり詩、 なのだと思います。 全てがそうではないとしても、 そういうネガティブなものから生まれたものたちはでも決して、 悲しみであふれていなくて、 誰かがちょっと笑ったり、好きだと思ったり、カルチャーショックを受けたりする、 そういう感じが本当に素敵だなと思います。 「詩のボクシング」はそういう感じ、のある、 大好きで大切な場所です。 そして、その場所にまた立つことができることの大きさを、 ここ徳島で日々の生活を送りながらひしひしと、 感じています。 大切なその場所に立つために、 私の周りにいてくれるものたちと一緒に、 心の底から準備していきたいと思っています。 どうぞ、よろしくお願いします。 小笠原淳 肉体から声が絞り出されているのか、声から肉体が絞り出されているのか、はたしてそれは本当に自身の声なのか言葉なのか、その境界が曖昧になってトロけていく。リングの上でそのような錯覚の深みにはまり込むとき、自身の声と肉体とオーディエンスが一切の肉体的な接触なく溶け合ったとき、語り手と聞き手のからだを言語化できない稲妻のようなカタルシスがビリビリと走り抜ける。「詩のボクシング」の快感とはその瞬間にあった/あるのではないだろうか。最後かもしれない、もう最後かもしれない、もう一度、もう一度、強者どもに囲まれて、リングで吠える、猿が。 寺内大輔 以前,広島大会で出会ったひとりの朗読ボクサーのことを書きたい。 ご年輩の男性で,妻の死を題材とした詩を朗読していた。 朗読の途中,彼は突然無言になった。会場も静まりかえっていた。 詩の内容に感極まったのか,彼の肩は小刻みに震えていた。 少しの間があり,「ボッ」というノイズが轟いた。 堪えきれなくなった彼の息が,マイクに直撃した音だった。 彼は,涙をこぼしながら,声にならない声で「すみません」と言い, 朗読を再開せずに,リングを降りた。 朗読を中断したにも関わらず,観客の多くが心打たれたのは, そこに,彼の「リアル」があったからだろう。 これまでの私が目指してきたものは, 彼とは対極の,フィクショナルな朗読である。 いくら気持ちが高ぶろうとも, 冷静さを保ち,離見の見を強く意識しながら, 注意深く一つひとつの声を発してきたつもりだ。 私は,私の望む空間を,精巧につくりあげようとしてきた。 しかし,いま,ふと思う。 彼と私は,実は同じなのではないかと。 「いま,ここ」への感覚を研ぎ澄まして声を発するときの私は, 精神的にも,また身体的にも,まぎれもない「リアル」だからだ。 リングと客席は,もともと「フィクション」と「リアル」の間を漂っているものだ。 朗読をどれほど精巧に構築しようとしても, 「いま,ここ」という「リアル」を手なずけることは,決してできない。 岐阜のリングで現れる「いま,ここ」に対しても, できる限りの誠実さを持って立ち向かいたい。 他の出場者の思いは下記Facebookで! ■
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by poetryboxing
| 2015-10-01 22:10
| 選抜式・全国大会2015
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